●麻田藩主




 摂津麻田藩主青木氏(徳川幕府の外様大名柳間詰) は、宣化天皇の皇子上殖葉王の子孫多治比古王から27代の後裔で武蔵守青木重直は土岐芸頼に仕え、後美濃国の斎藤道三に属して軍功があった。斎藤氏滅亡後織田信長に従い後豊臣秀吉に仕えた。文祿2年10月摂津国豊島郡において1400石の地を賜い同10年9月摂津兎原郡の内360石の地を加増された。後年剃髪入道して浄憲と号し法印に叙せられ刑部卿と称し、慶長18年11月大阪で逝去した。86歳。佛日寺に重直の墓石があり、佛日寺は青木家代々の菩提寺である。重直の子一重は麻田藩青木家初代の藩主である。





開山堂外観


歴代藩主位牌





 「1代一重」 幼名忠助 重直の嫡男 所右衛門

 一重は天文20年美濃で生まれた。初め今川氏真に仕え新阪の戦に敵と槍を交えて首級を得た。後徳川家康に従い弱冠にして姉川の戦において真柄直基と槍を接しその首を得た。後豊臣秀吉に従い天正十三年摂津国豊島郡内に封土を与えられ伊予備中にも加増があって合計1万石を領した。同14年大阪七手組の一隊長に抜擢され巨銃士14人の軍使に列せられた。同16年従五位下民部少輔に叙せられる。秀吉の死後秀頼に仕えた。大阪の陣起るや一面の守備となって奮戦し軍功をたてた。元和元年正月大阪冬の陣の和議礼謝使として、大蔵局正栄尼 と共に秀頼の旨を奉じ駿府に下向した。帰途2人は大阪に還ったが一重は京都において拘禁された。所司代板倉勝重命を受けて一重を旅舎に置きて警固する。その間に大阪は落城した。一重これを聞き薙髪して宗佐と号し家康に幽居されんことを望んだが諭慰されて、元和元年8月召されて家康に仕官し豊島郡麻田の地に1万19石を賜り陣屋を構えた。家康より格式は10万石を以て待遇するとの墨付を受けた。一重は麻田に陣屋を築き藩政を整備し領下の民政に留意して藩の基礎を確立した。寛永5年8月年78歳で逝去し法名を「梅隣院殿華屋令曇居士」と称し麻田村松隣寺に葬り後佛日寺に移転する。


 「2代重兼」甲斐守 幼名源吾

 重兼は一重の弟青木次良右衛門可直の長男であったが元和5年一重の養子となり寛永3年8月従五位下甲斐守に叙せられ麻田藩2代の藩主となった。幼時より英明の聞え高く長じて後は内藩士に武芸や学問を奨励して健実な士風を作興し外領民を愛撫して仁政を施した。重兼の時伊予の国の領地を豊島、川辺郡の一部に移封されこの時から川辺郡の波豆村(宝塚市)北村大鹿(伊丹市)川辺郡の高平の13ヶ村(三田市)の全域を麻田藩の領地としたのである。  重兼は寛文3年8月従五位下甲斐守に叙せられた。同年11月幕府より多田院再興奉行を命じられ鋭意再興に努め荒廃している源家の宗廟を復 興した。隠元禅師が来朝して山城国宇治に黄檗山万福寺を建立するに当り徳川幕府は重兼に建立奉行を命じた。重兼熱心に工事を指導監督して結構壮麗な大伽藍を建立して今日に現存する。  重兼は深く隠元禅師に師事し仏門に入って端山(「端山性正大和尚」) と号した。承応3年先代垂直の墓地である畑村に菩提所を移して黄檗宗佛日寺と称し青木家の菩提寺として寺領200石を与えた。境内は2町6段3畝23歩で本堂の他29宇の堂塔伽藍を有する摂津黄檗の大寺院であった。


 「3代重正(重成)」 甲斐守

 駿河大納言忠長家臣、朝倉宣親の長男で酒井忠勝の外孫。寛永2年、江戸に生る(駿河説もある)。承応元年重兼の養子、室は一重の孫 (重兼の養女)。寛文12年封を継ぐ、大番頭・御留守役・御側御用役を務める。  「武道ヲ好ミ、文学ナシト云へドモ淳直也」とある。元祿6年8月15日卒、69才、「陽徳院殿徹山道剛大居士」。 延宝年間、屋敷が火災にあい初代一重の武勲の具足を焼失する。  同5年、麻田領の財政苦しく札遣い (宝歴3年の銀札、後年の藩札)を初めて使用する。


 「4代重矩(重安)」 重正次男 甲斐守

 覚文5年江戸に生まれる。元祿6年封を継ぐ、享保14年3月27日卒、65才。  「了心院殿雄山元英大居士」。母は二代重兼の養女、実は1代一重の長男の娘マン。従って重矩は一重の外曽孫であり、また、眞田幸村の外曽孫でもある。


 「5代一典」 重矩実子 出羽守・甲斐守

 元祿10年麻田に生まれる、正徳3年封を継ぐ、元文元年正月27日卒、40才、これから後は江戸菩提寺瑞聖寺を本墓地とし葬ると記す。 「春徳院殿端海元活大居士」。享保3年豊島郡大洪水、麻田陣屋も浸水する。 また、同17年夏 中国地方に大蝗害あり、麻田備中領大被害のため、ナゲ容赦(年貢米免除・摂津では投げ御用捨)となる。


 「6代一都」 一典嫡男 出羽守・甲斐守

 享保6年江戸に生る、元文元年封を継ぐ、寛延2年12月26日 卒、29才、「覚翁院般大徹殿浄真大居士」。


 「7代見典」 一典次男 内膳正

 享保8年麻田に生まれる、寛延3年封を縦ぐ、宝歴4年8月12日(14日)卒、32才、「清涼院殿秋岳浄映大居士」。藩主在位、わずか四年であった。


 「8代一新」一典三男 美濃守

 享保13年麻田に生る、宝歴4年封を継ぐ、天明元年5月17日  (20日)卒、54才、「善応院殿心珠衍明大居士」。 男子全員早世(若死)し娘のみとなる。


 「9代一貫」 甲斐守

 一新の養子、実は伊達遠江守村年の三男(次男)、室は一新の娘、享保18年生、明和7年封を継ぐ、天明6年6月16日(28日)卒、54才、.「養源院殿慈眠衍端大居士」。6年間、大番頭となる。


 「10代一貞」 一貫実子 出羽守・甲斐守

 安永5年生、天明6年封を継ぐ、天保2年8月6日卒、56才、  「正法院殿一乗義貞大居士」。  寛政元年麻田藩校直方堂を創立する。一貞は隠居後、不老斉と称し俳句を好み、大和郡山派に属す。青木と家紋を詠む句がある。
 青々とした木の陰に富士が見え
 不二山は武鑑で見しも一つなり 俳名 三花


 「11代重龍」一貞実子 駿河守

 寛政12年生、文政4年封を継ぐ、安政5年8月8日卒、「龍光院殿天祥本瑞大居士」。文政年間大坂城加番となる。  天保14年、老中水野忠邦、江戸10里、大坂5里以内の地を全て天領として、幕府の増収を命じたが、現地の動揺激しく、また、水野自身、失脚する。


 「12代一興」 一貞六男 美濃守

 文政5年生、弘化4年、封を継ぐ、嘉永2年7月3日(8月10日)卒、「玄了院殿俊徳義勇大居士」。藩主在位わずかに2年間であった。 麻田藩校直方堂(後に文武局)教授課目を増す。


 「13代一咸」 甲斐守 

一興の養子、実は奥平昌高8男、文政11年生、嘉永2年封を継ぐ、安政3年6月(8月)20日卒、「泰雲院殿一峰清咸大居士」。


 「14代重義」 重龍5男 民部少輔 

一咸の養子であるが、実は11代重龍の5男。嘉永6年生、安政3年封を継ぐ、明治2年版籍奉還、麻田藩知事拝命。同4年7月、廃藩置県、麻田県となり麻田藩知事制廃止、東京に移住、子爵に列す。家祿479石2斗下賜される。明治17年10月卒。 

執筆者 上田一氏