●とらわれない心

65.平成29年8月5日(土) 施餓鬼法要の一席
 演題「とらわれない心」 布教師 住職(服部潤承)


 毎日が大変暑くて、外に出るのも一苦労でございますが、今日はお盆のお施餓鬼の法要にお参り下さいまして有難うございます。きつと皆さんの亡くなられましたお身内の方も、私の事を忘れずわざわざ暑いのに「お盆のお施餓鬼」を勤めに菩提寺に参ってくれたと悦んでいらっしゃることでありましょう。お盆を機会に亡き方を追慕し、今ここに生きていることに感謝できればどんなにか幸せではないかと思うのであります。いずれはまた故人と再開しなければならない時が参ります。その時になってあの時、ちゃんとしておいたらよかったと悔いの残らないように、今を大切にやれることを精一杯やってまいりたいものであります。
 2年半前、急に本山の執事を勤めることになり、なにもわからぬまま飛び込んでまいりましたが、永年の教師生活のおかげで、それを生かしながら、毎日コツコツ丁寧に執事の仕事をつとめてまいりましたら、いつの間にか半分が過ぎてしまいました。その留守の間にも拘わらず、不備なところの改修を続けて頂いております。墓地の土壌改良工事・インターロッキング工事・境内の参道敷石工事など微に入り細を穿つ皆さんのお力添いに、ただただ感謝申し上げる次第であります。
 ところで、ノーベル平和賞をご存知でしょうか。聞いたことはあるという方たくさんいらっしゃることと思います。「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体に」贈られる名誉ある賞であります。日本では1974年(昭和49年)元自民党総裁佐藤栄作元首相が「日本は非核三原則(もたず、つくらず、もちこませず)」を唱えられました。ノーベル平和賞受賞された時「佐藤個人ではなく、国がもらったものだ」と名言を残されました。首相の法名は「作願院釋和栄」で仏教徒でもあります。1979年マザー・テレサ(カトリックの修道女)・1989年ダライ・ラマ14世(チベット仏教の法王)・1991年アウン・サン・スー・チー女史(テーラワーダ仏教徒)・2010年劉 暁波<りゅう ぎょうは>氏(人権活動家)氏は今年5月、服役中腹部に異常が見つかり精密検査の結果、肝臓がんと判明。6月に入院しましたが末期がんで手術もできず病状は悪化しこの7月13日に死去されました。亡くなる際、妻に「お前はしっかり生きなさい」と言い残しました。36日間毎日夫に付き添い医師から病状の説明を聞いていたそうです。本人はドイツかアメリカで治療を受けたかったようですが、其れもかなわなかったそうです。遺体は火葬にし、海葬(海への散骨)したそうであります。(例え服役中であっても、希望の医療が受けられないのはお国の事情なのでしょうか。それとも一党独裁だからなのでしょうか。----------)

 さて、本日の演題は、「とらわれない心」無門関第五則『香厳上樹』よりお話しをいたしたいと存じます。

  香厳<きょうげん>和尚云く、人の樹に上がる如し。口に樹枝を銜<ふく>み、手に枝を攀<よ>じず、脚は樹を踏まず。

  樹下に人有って西来<せいらい>の意を問わんに、対<こた>へずんば即ち他の所問うに違<そむ>く、若し対<こた>ふれば喪身失命せん。

  正恁麼<しょういんも>の時、作麼生<そもさん>か対<こた>へん。


 口語訳は、香厳和尚が、「人が樹にのぼり、枝をくわえて、手は掴<つか>まず、足はかけられない状態で地上から、「達磨大師がインドからやってきた真意は何かと」と問われる。
 答えなければ、禅僧がすたるし、答えたら、地上に落ちて命を失う。こういう場合、どのようにしたらよいだろうか。なかなか正解が見つかりません。
 銜<くわ>えてぶら下がっている枝を離すか離さないか。どうしたら、口を開かないで達磨大師がインドからやってきた真意を伝えられるのかというようなことなど迷いの中にあっていろいろ考えてしまいます。
 「答えは、与えられた条件の中にあるとは限りません」宙ぶらりんの状態で話は、できないけれども両手・両足が空いています。「達磨大師がインドからやってきた真意」を口で説明しようとするから、口が塞がっていては、答える方法が無いと思い込んでしまいます。口による話しか説明できないと思い込み、それにとらわれてしまっているのであります。
 先入観や固定観念や常識は「とらわれの心」の最たるものであります。口が使えないならば、両手・両足・眼・鼻・耳があります。当意即妙<とういそくみょう>その場その場に即応して機転を利かせ柔軟に対応できる「とらわれない心」を養いたいものです。



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