●仏さまの子

62.平成28年8月22日(月) 地蔵盆の一席
 演題「仏さまの子」 布教師 住職(服部潤承)


 相も変わらず暑い日が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。この地藏盆も以前は10時から始めておりましたが、余りにも暑いものですから、1時間早く9 時から始めましたが、こんなに早く暑くなるでは、もっと早くするか、それとも一層、夕方の日が暮れて涼しくなってからにしては如何と思っております。是非ともご意見を頂戴いたしたく存じます。
 さて、春に熊本で大地震が起きました時に、南阿蘇の山道を車で走っていた大学生大和晃さんが山崩れに出会い、土砂・車諸共谷底に落ちてしまい、土砂が覆いかくし、長らく行方不明の状態で、捜索も途中で打ち切られてしまいました。
 ところが、大学生のご両親は尚も捜索を自力で続けて、谷底に潜む僅かな大学生の乗っていた車の痕跡を発見したのであります。発見の通報を受けて捜索を再開し大学生の乗っていた車と遺体を発見致しました。このご両親の子供を思う気持ち・岩をも通す強い意志が天地をも動かしたのでありましょう。
 話は変わりまして、今上天皇が先ほどマスコミを通じて、生前退位について話されました。江戸時代でしたら、天皇家も出家という方法で生前退位ができました。明治以降、神仏分離令もあって叶わぬものとなってしまいました。戦後、日本国民の象徴としての天皇陛下は、ご公務だけが増大し大変なご負担を強いられていました。戦地跡や地震などの被災地に精力的に赴かれ、国民に添われ、慰霊を続けられました。
 戦後間もなく先の裕仁天皇が、九州巡幸なさった話が今も語り伝えられています。

 昭和24年5月、佐賀県の因通寺の洗心寮、ここは戦争引き上げ孤児の寮です。裕仁天皇は禅定の間で或る女の子に目が留まります。そこで話しかけられます。女の子が手にしていたのは、2体の位牌でした。

 裕仁天皇は「お父さん・お母さん。」

 女の子は「はい、これが父です。これが母です。」

 裕仁天皇は「どこで」

 女の子は「父は、ソ連と満州の国境で。母は引き上げの途中で。」

 裕仁天皇は「お寂しい」

 女の子は「寂しくありません。私は仏さまの子どもですから」

      「仏さまの子どもは、父にも、母にもお浄土で、もう一度会えるのです。」

      「だから、父や母に会いたくなったら、私は仏さまに手を合します。」「そして、父と母の名前を呼ぶのです。」

      「すると、父も母も、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。」「私は寂しくありません。私は仏さまの子どもです。」

 裕仁天皇は右手で女の子の頭をゆっくり時間をかけて撫でつつ尚も話しかけました。

      「仏さまの子どもはお幸せですね。これからも立派に育ってくださいね。」

 裕仁天皇はおっしゃると、大粒の涙が一つ二つこぼれ落ちました。

 女の子ふいに叫びます「お父さん。」

 其処にいた大人たちも言葉をなくして、顔を覆いました。
 もはや、裕仁天皇は溢れる涙を隠そうとされませんでした。
 皇居に戻られて心境を和歌に託されました。『みほとけの教え まもりて すくすくと 生い育つべき子らに 幸あれ』と詠まれました。



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