●まことをつくす

46.平成24年8月22日(水) 地蔵盆の一席
 演題「まことをつくす」 布教師 住職(服部潤承)

 
 本日は地蔵盆にちなんで、「まことをつくす」と言う題でお話させていただきたいと思います。
 中国の『文選』と言う漢詩に、「去る者は日に以って疎し。」と言う一文がございます。
去る者は、亡くなった人。日に以っては、日毎に。疎しは、忘れ去られてします。通して訳しますと、亡くなると、時間が経つに従って、忘れ去られてしまうものだ。と言う意味でございます。亡くなった当初は、「惜しい」とか、「哀しい」とか、「まだ、まだこれから」とか言うように、亡くなった方の死を悼むのであります。ところが、五年・十年と経つに従って、ついつい忘れ去られてしまうものであります。
 お墓を見ておりましても、花や水のお供えも、月日が経つにしたがって途絶えがちになり、いずれは苔むし、お参りする人すらなくなってしまうものであります。
 そこで、古代から綿々と引き継がれておりますのが、仏教者の知恵と申しましょうか。このような法要を行います。現在社会におきましては、何事もわりきらなければならない。合理的でなければならないと思われておりますが、仏教では、わりきってはならないのであります。
 例えば、春秋にお彼岸がございます。「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。暑くもなく、寒くもない、よい気候でございます。また、夜の長さとお昼の日照時間が同じでございます。片寄らないでバランスがとれております。
 どんなに大きな船にでも、乗客がどちらか一方に片寄って乗船いたしますと、船が一方に傾き転覆いたします。何事も片寄ってはよくないのであります。これは執着となるからであります。執着は、羅針盤を狂わせ、想わぬところに船を進ませることになります。つまり、我執や我欲の虜になるからであります。
 話を本筋に戻しましょう。このような法要は、亡くなった方の供養をいたすとともに、亡くなった方を偲び、また、日頃、疎遠になっておりますところの仏縁を温める良い機会となっているのでございます。
 近頃、核家族と申しまして、親子・兄弟が別々に生活しております。だからこそ、このような法要が、亡き方のとりもつご縁となり、あらためて、旧交を温める絶好の機会となっていると言わざるを得ません。
 よく次のような質問を受ける事がございます。
 住職、お経は生きている人のために、説かれた御釈迦さまのお言葉と違いますか。それなのに、何故、亡くなった人に、お経をあげるのでしょうか・・・。
 昔から、お経をあげると申します。あげるとは、読み上げると云う意味ではございません。差し上げるのあげるのでございます。このような法要の時には、お仏飯やお水や果物等をお供えいたします。これと同様に、お経も差し上げるのであります。つまり、お経をお供えするのであります。
 キリスト教では、聖書を拝読し、讃美歌を捧げます。 神道では、祝詞や舞楽を奉納いたします。 仏教では、お経をお供えするのであります。 一堂に会した皆様によって、まことをつくすのであります。 これが供養なのであります。 供養の供は、お供えをする。供養の養は、自分を養う。つまり、修養すると言う意味であります。 ややもすると、お供えだけで終わってしまいがちでございますが、供養、すなわち、自分の修養も忘れてはならいのであります。  今、私達を木に例える事ができます。枝葉は、現在生きている私達そのものであります。そして、地下の奥底にかくれて目に見えない 根の部分を今は亡き人に例えることができるでしょう。
 枝を伸ばし、幹の年輪を増やし、葉を青々と茂っておられるのは、土の中で、しっかり根を下ろしているからでございます。
 私達、枝・葉は、しっかり光や空気を吸収するとともに、また目に見えないところで、しっかりと根を下ろしてもらうためには、 充分な土壌と充分な養分が必要なのであります。これが、供養と言うものではありませんでしょうか。
 道路には、道路標識がございますように、人生におきましても、道しるべが必要でございます。 道に迷い、どちらに行ったらよいのか分からない時、道しるべに出会いますと、「ホット」いたします。この道しるべこそが教えでございます。
 また、道路には、平坦な道もあれば、険しい道もございます。広い道もあれば、狭い道もございます。どのような道でありましても、 自分の力強い足がございましたらならば、どこでも行けるというものでございます。
 今日、道しるべに導かれて、自分の足でやってこれました。道しるべと自分の力強い足がありますと、実にありがたいものでございます。
 雛の誕生は、雛が内側から自分の力で殻を破ろうとした瞬間、親鳥が外側から殻を破ってやり、雛を導き出してやります。 自分の力と他の力が「ピタ」と一致することを、禅では『◆啄(そったく)の機』と申し上げます。『◆啄の機』に与るには、まことをつくすことから始めたいものであります。

※ ◆は口へんに卒



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