他是阿誰

41.平成23年8月 6日() 施餓鬼会の一席
 演題「他是阿誰」 布教師 住職(服部潤承)

 


 
 今年は、例年にないお盆になりそうです。と申しますのは、去る311日、東日本大震災に見舞われ、早5ヶ月が経ちますのに、今なお、行方不明の方が5000人近くもいらっしゃいます。お身内の方は、どのようなお気持ちでいらっしゃることでしょうか。瓦礫の中にご遺体が埋もれているということで、遺体の捜索が慎重に進められるため瓦礫撤去も進んでいないとのことであります。
 また、15000人の多くの方々が、震災とそれに伴って起きた津波に命を落とされました。ただただご冥福を祈るばかりであります。
 よく、「無常は水火の攻めるがごとし。」と申しますが、海が荒れ狂うと、アメーバの生物体のように、侵攻してきました。防波堤をなぎ倒し、ビルを飲み込み、車を弄び、田畑を這い、家屋を押し除ける様子は、まるで荒ぶる神の仕業では、あるまいかと思ってしまいました。
 その上に、原発の二次災害が発生し、放射性物質セシウムが原発周辺地域に漏れ出し、住民や原発関係者の心配は、いかほどか、計り知れないものがあります。
 かつて、日本の経済は一流、政治は三流と言われていましたが、この数年間の為体(ていたらく)ぶりは、三流どころではありません。国民の生命と財産を守るのが第一義でありましょうし、安心・安全は政治の使命でありましょう。
 戦時中に、集団疎開というのがありました。この佛日寺にもたくさんの学童がアメリカ軍の空襲を逃れて、集団疎開でやって来ました。
 将来のある前途洋々たる少年少女の若き命を守ることに佛日寺が役立てたことは、誇りに思えます。
 この間も、神津国民学校の出身者、男性二人が、佛日寺を訪ねて来られました。親元を離れ、疎開と言う不自由な生活を強いられたけれども、なんとなくこの佛日寺が懐かしい。すっかり変わってしまったけれども、ここで生活をしたことを思い返すと涙が出てくるとおっしゃっていました。きっと寂しく、辛かったのでしょう。どのような状況であったのか、聞き合わせたことを紹介いたします。
 現在の淀川区、以前は東淀川区だったそうですが、そこにありました神津国民学校、現在の神津小学校です。当時の校長先生は、吉良哲明先生でした。
 昭和19年、今から67年前、917日、佛日寺を始め7ケ所にわかれて、学童集団疎開が始められました。
 佛日寺の場合は、昭和19年、9月に5年生女子が22名・4年生女子が21名、昭和20年になると、大阪市内の空襲が日毎に増したので、12年生の低学年も集団疎開に加わり、2年生男子が17名・同女子が21名が参加しました。ところが、5月になると、4年生が、8月は2年生が田尻村(妙見山の近く)に再疎開します。その理由は、この池田の地も空襲を受け始めたことや、日本の軍隊が駐屯したからです。
 何故、池田も空襲を受けたのか。推察しますと。
 第2飛行場(今の大阪国際空港)が軍用飛行場として使用していた。
 ○○工業が軍需用機器を製造していた。
 理研光学(試験場と称していたところ)がレンズを製造していた。
 池田中学校(今の池田高校)に、軍の食料庫(三千俵の米・味噌が保管されていたが焼失)があった。
 ○○工業の寄宿舎・渋谷寮が上渋谷(今の渋谷中学校付近)にあった。
 畑山に小屋を作り、そこに航空隊の対空無線連絡所(無線基地)があった。
 九州の鹿屋にあった海軍の航空隊の本部が第2飛行場に後退してきた。それにともなって、軍隊が駐留した。
 空襲の様子は、次のようでした。  爆撃機は、B29・グラマンが空爆し、警戒警報(空襲の予告のサイレン)の後、空襲警報(空襲の始まるサイレン)が鳴ると、畑山から第2飛行場に向かって、要所要所を空爆していった。また、3機編隊のグラマン戦闘機が、動くものに対して低空飛行(パイロットの顔が見える)で無差別に機銃掃射をした。石澄川の西(今の石澄団地)に1トン爆弾(不発弾)が落とされ、畑に大きな穴があいた。
 焼夷弾(火災を起こさせるための爆弾)がパラパラと落とされ、なかに不発弾があって、それに触り爆発、顔に大やけどをした学童がいた。秦野国民学校の朝礼で、包帯をぐるぐる巻きにした学童が、教台に立たされ、不発弾を触るとこのようになると、教官が注意を喚気した。
 疎開生活の1日の日課は、次のようなものです。朝6:00(113月は6:30)起床。乾布摩擦、清掃作業。朝礼、父母・教師への朝の挨拶。朝の訓練、体操、週2回上半身裸でマラソン。
 7:30朝食、健康簿記入。
 9:00〜11:30学習、秦野国民学校の運動場・講堂を借用・午前・午後の二部制。算数・国語中心。家庭科はつくろいをした。運動場の桜の木の元に、畳二帖分の防空壕を掘り、警戒警報が鳴ると、逃げ込んだ。北側にあった鉄筋の校舎は、白であったが、墨を摺って、上から流し黒にした。
 12:00昼食、温度表記入
 1:00〜2:40学習。
 3:30入浴(隔日)・寺の五右衛門風呂と○○工業渋谷寮の風呂を使った。入浴しない班は自由時間。
 5:00夕食、清掃。
 6:00〜8:00自習、講話、慰安会(毎週土曜日が学童の手で演芸会をした。)
 8:30就寝、親元を離れ、灯火管制で暗く、しくしく泣く声が聞こえた。
 食生活は、次のようです。
 「ひもじい」と言う言葉が象徴していて、日毎に栄養失調が進んだ。主な食べ物は、おもゆ(雑炊)で、たんぽぽ・のびる・芋のつる・野草を入れたものや大半が大豆の豆ご飯・大半が麦の麦ご飯・大根の煮込みご飯、軍用の鮭缶・かんぱん・かぼちゃ・すいとん、畑の名産のみかん(皮まで食べたとか、皮をいためて砂糖をふりかけて食べたとか。)、食べるものがなく、歯みがき粉まで食べた。食器は、一種独特の臭いがする黒いベークライトを使用していた。
 衛生面は、どうであったのでしょうか。
しらみ・のみが衣類や頭髪に涌いた。釜で衣類を煮たてるとしらみ・のみの死骸で真っ白になった。女子の頭髪は、揮発油をかけて、しらみ・のみを殺した。
 お寺での日課として、檀家さんの子供と一緒に日曜学校に参加しました。
 当時の住職、祖父の服部承薫和尚は、法話と坐禅を担当しました。叔父の服部祖承和尚は、池田の師範学校に通う学生で、紙芝居や御遊戯をしました。祖母の服部文子婆さんは、寮母のお手伝いをしました。一家総出で集団疎開のお世話をしました。ところで、私の父、服部承仁和尚は、本山での修行を終え、終戦まで出征しておりましたので、佛日寺におりませんでした。
 「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」と言う言葉があります。この度の大震災・津波・原発事故と言う非常事態に、人命軽視とも思われる対処は、歴史に学んだとは、言えないと思います。人の命をあまりにも軽く扱ったように思えてなりません。戦時中の集団学童疎開から教訓として、多くのことが学べたと思います。
 最後に、予告しておりました無門関第四十五則「他是阿誰(他は是れ阿誰ぞ)」についてお話して終わりたいと思います。
 本文を素読いたします。“東山演師祖曰く、「釈迦弥勒は猶お是れ他の奴。且く道え、他は是れ阿誰ぞ。」とあり、口語訳をしますと、
“東山の法演和尚がおっしゃった。「お釈迦様も、弥勒菩薩も、彼の子分である。さあ言ってみよ。それでは、親分である彼とは一体、誰でしょう」”
と言うのであります。
 親分・子分は主従関係でありますので、お釈迦さまも、弥勒菩薩も子分であれば、その親分は誰がと尋ねられますと、もう分別の世界に迷い込んでしまいます。相対的に物を見てしまいます。比較対照が始まります。そうすると、絶対的なもの・大いなるもの・偉大なもの・天地・仏・神という言葉が出てまいります。この言葉には、二元の世界を形づくっているように思います。
 究極、二元対立の世界を一元融和の世界に移行させるところにあるかと思います。
 西田幾多郎氏は、「絶対矛盾の自己同一」・鈴木大拙氏は、「即非の論理」とおっしゃっています。
 「自己は自己を越えたものにおいて自己を持つ。」
 「自己は自己否定において自己自身を肯定する。」
 「個は超個において真の個を持つ。」
 「自己がはじまるとき、世界が始まる。世界がはじまるとき、自己が始まる。」
と。親分・子分の関係を越えて、何ものにも犯されない。自己の主体性・自己の確立、自己こそが何ものにも変えられない貴きもの、唯一無二の自己こそ彼つまり親分であります。

 

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