●法話

 4.平成14年3月21日(水) 春季彼岸会の一席
  演題「乾屎けつ」布教師 住職(服部潤承)


 本日の演題は、雲門禅師のお言葉であります「乾屎けつ」でございます。
本題に入る前に、皆様のご家庭では、百人一首の「かるた取り」をされますでしょうか。
いやいや、高尚で教養のいる百人一首の「かるた取り」はしないけれども、ゲームの「坊主めくり」はすることがあるとよく言われます。
 「坊主めくり」と言うのは、百人一首の読み札に、人物画が描かれています。その人物画は、女性・男性・僧侶の三種類があります。 読み札をよく繰り、裏向けに積み重ねて、順番に一枚ずつ取って行き、たくさん取ったものが勝ちになるわけです。取るだけでは、このゲームはおもしろくありません。 どのようなゲームにも、必ずルールがあるように、次のようなルールがあります。
 普通の男性が描かれている絵札は、取ったその一枚だけが自分のものになります。
僧侶が描かれている絵札は、取った僧侶の絵札とともに、今まで取ったすべての絵札をさし出さなければなりません。 坊主憎けりゃ袈裟までも・・・嫌われるのは、ここからきたのでしょうか。・・・
 女性が描かれている絵札は、取った女性の絵札と僧侶の絵札でさし出された絵札が自分のものになります。 しかし、僧侶の絵札でさし出された絵札が人手に渡り、無い場合は、もう一枚絵札を取ることができます。
 僧侶の絵札が出ると、さし出さなければならないルールは、どうして誕生したのでしょうか。 持ち札が少ない間は、さし出すのも抵抗がありませんが、たくさん持ち札が溜まっているのに、一枚の僧侶の絵札のために、さし出すのは、どんなにか残念で悔しいことでしょう。 自分に内在する所得欲が、そう思わせるのであります。
 さし出した絵札をなんとか取り戻そうと、女性の絵札が出るように、祈りながら絵札を取ると、普通の男性の絵札であったら、「なんだあー」とがっかりし、またもや僧侶の絵札であったら、自分の運の拙さを嘆き、一般僧侶まで憎んでしまうのであります。
 ゲーム相手が、男性の絵札を取ったら、ほっとし、ゲーム相手が僧侶の絵札を取ったら、喜び、ゲーム相手が女性の絵札を取ったら、地団駄を踏んで悔しがります。
 そして、女性の絵札で、さし出されたたくさんの絵札を手にしたゲーム相手に、是非とも僧侶の絵札があたるように念願します。念願通り、ゲーム相手に僧侶の絵札があたれば、あたった本人の悔しさに反して、大喜びをするのであります。
 それは、先程、僧侶の絵札でさし出したたくさんの絵札を取り戻せるだろうと言う細やかな期待からでしょう。
 このように、一喜一憂し、人の不幸を願い喜び、人の幸せを羨み悔しがり、自分の不幸を悲しみ嘆き、自分の幸せを人の気も知らないで大喜びをします。
 まさしく、「坊主めくり」は、人間社会の縮図と言って宜しいかと存知ます。移ろい行く無常と自分の力ではどうしょうもできない、廻り合わせの縁の世界にあって、自分のなかにある貧欲が一喜一憂させているのであります。
 そこで、禅門では損得勘定の世間の尺度を離れ、無心の尺度を体得しなければならないと強調しております。無心の尺度は、女性の絵札で得をしても、僧侶の絵札で損をしても、損得勘定の二分法を捨てて、淡淡と現実の事象を、そのまま受けとめて行くだけのことであります。
 前置きが随分長くなりましたが、本題に入りたいと存知ます。
 無門関の第21則に、
 雲門、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」
 門云く、「乾屎けつ」
 ある時、修行僧が雲門文偃禅師(949年寂・洞山守初の師)に尋ねました。「仏とは、どういうものですか。」と、そうすると、間髪を入れず雲門文偃禅師は、「乾屎けつ」と答えたのであります。
 「乾屎けつ」と言うのは、下品な話になりますが、「糞かきべら」のことです。かつて、中国では、紙が高価で貴重な時代、トイレット・ペーパーのかわりに、用を足した後、へらを使っていたようです。日本では、木の葉や草の葉っぱ・荒縄を使ったそうです。
 何故、「糞かきべら」が仏さまなのでしょうか。「汚い」イメージで、仏さまを見てしまいますと、イメージ・ダウンにつながってしまいますが、この世になくてはならないものであり、この世に存在するものは、すべて必要なものばかりなのであります。
 例えば、道端にころがっている何の変哲もない小石を、この世から完全に抹殺することができたら、力関係のバランスを崩して、宇宙は大爆発すると言います。
 この世に存在するすべてのものが、結び合い関係し合って、バランスを保っているのであります。この世に存在するすべてのものが、大事なものばかりなのであります。
 それを、2500年前、お釈迦さまは、「山川草木悉皆成仏」とおっしゃっています。仏さまと言うと、崇高で、尊く、遠くから礼拝するもの。これが、一般の常識であります。「糞かきべらが仏さま」「ウソ・マジ」と言う声が聞こえてきそうです。
 禅は、世間の常識を一度、打破して物事の見方を変えることを大切にしております。その一つが「乾屎けつ」なのであります。
 トイレに行って、トイレット・ペーパーがなかったならば、たちまち困ってしまいます。たかがトイレット・ペーパーと申しますが、されどトイレット・ペーパーなのです。私達にとって、掛け替えのない大切なものであります。仏さまと同じ存在、いや、仏さまそのものと言って宜しいかと存知ます。
 仏さまを考えるのに、この「乾屎けつ」こそ、よい最高の銘題と言えると思います。

写真は割愛

「乾屎けつ」の「けつ」は木偏に蕨の草冠が無い字


法話TOP