●百丈野狐

37.平成22年8月 7日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「百丈野狐」 布教師 住職(服部潤承)

 
 年々、暑さが厳しくなってまいりました。連日、35度を越え、熱中症で亡くなる方が続出しているようですが、皆さんは大丈夫でしょうか。  年に一度の大切なお盆行事として、お施餓鬼を勤めております。
 近頃、仏事が随分、簡素化してまいりました。社会の状況、特に政治経済や住宅事情がそうさせているのでしょう。 各家庭で仏事ができないようでしたら、せめてお寺の行事に参加され、ご先祖様をはじめとする亡き人をお偲びするよすがになればと、呼びかけております。
 よく耳にすることに、身内の方が亡くなりますと、ご遺体を病院から火葬場に搬送し、お葬式もしないで、そのまま火葬をしてしまう「直葬」をする家庭が増えたそうです。 まるで、粗大ごみ処分のようです。 それは、一般的に言われている「死んだら終わり」と言う言葉が当たっております。 また、義理か厄介かでお葬式をいたしましても、四十九日までの中陰法要をお勤めにならない家庭があるようです。 あとに残された者ができるささやかな仏事ですよと奨めますが、「故人の意思」ですからと言って、中陰法要をされない家庭があります。 本当に故人の意思なのでしょうか。遺族が面倒くさいものですから、故人の意思に託けて、やらないことを正当化しているように思えてなりません。 心ある関係者は、憤懣やる方ないものを感じていらっしゃるものと推察いたします。
 中国で作られたと言われる経典に、「十王経」と言うのがあります。 その中に、故人の冥福を祈るのに、追善供養の他に方法はないと言っています。 追善供養は、亡き人に対する生きている人の務めであります。 自分のために、例えば、お金が儲かりますようにとか、イケメンと結婚できますようにとか…。 ではなく、人のために務めたいものです。 戦没者を靖国神社で祀られています。 祀られている方が、戦犯であろうとなかろうと、慰霊にお参りすることをよしとしない意見がありますが、葬式もしないで火葬に付すことや、追善供養をしないでいる方がよほどおかしいのではないかと思うのであります。
 人が死者を弔う行為は、自然の普通の行為でありますが、チンパンジーにもみられると言うニュースが4月27日の朝日新聞に掲載されていましたので、紹介いたします。ギニアにジレと言う名前のチンパンジーが1992年に、病死した2歳半の子供を27日間以上、2003年にも病死した1歳の子供を68日間背負い続けたとあります。ジレだけでなく、同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子供を19日間背負い続けたそうです。 背負った死体はミイラ化しましたが、母親は生きている時と同じように毛繕いしたり、体にたかるハエを追っ払ったりして、子供に愛情を示したそうです。 これは、人が死者を弔う行為の起源として報告されています。 万物の霊長と言われている私達人間が、チンパンジーにも劣る死者に対するふるまいは、いささか恥ずかしいことと思うのであります。
 話は変わりまして、「はやぶさ」が6月に帰ってきました。
 平成15年5月9日13時29分、鹿児島県内之浦から小惑星探査機「はやぶさ」が打ち上げられました。
 主な目的は、イオンエンジンの試験運転と小惑星のサンプル採集でした。
 平成17年9月にアポロ群の小惑星「イトカワ」に接近し、表面を詳しく観測、サンプル採集を試み、平成19年夏に地球に戻って来る予定でした。 しかし、イオンエンジンの停止などのアクシデントに見舞われました。 スタッフの根気強い努力と絶対にあきらめない強い意思と優秀な英智の結果、復旧に成功、平成22年6月13日22時51分、60億キロの旅を終えて7年ぶりに地球に帰還、世界初、成功裏に終わりました。 その途中、「はやぶさ」から地球に写した美しい映像が送られてきました。 真空に青々と輝く真ん丸い地球、国境も紛争も何にも見えない、神の姿さえも見えない。 上・下、左・右もない宇宙の姿を映し出していました。 長い旅の終焉、種々のトラブルを乗り越え、電池切れで返信が途絶したのにもかかわらず、最後の力をふりしぼって、地球に棲む私達にメッセージを送ったのでしょう。 「皆の棲んでいる地球は、こんなに丸くて、美しいところですよ。」と。
 6月13日22時51分頃、「はやぶさ」は、オーストラリア上空から大気圏に突入しました。本体は、流れ星のように明るく、燃え上がりながら、華々しく散り去りました。その明るさは満月ほどであったと言います。何筋にもの流れ星のような中で、一際明るく、力強く飛んで輝いているのがありました。 それは、「はやぶさ」から切り離されたカプセルでした。カプセルの帰還地は、南オーストラリア・ウーメラ砂漠アボリジニー聖地であったそうです。
「はやぶさ」の名称は、目標に舞い降り、獲物を取って飛んでいく猛禽類のイメージから名付けられました。小惑星「イトカワ」は日本の宇宙開発の祖であります糸川英夫博士にちなむものです。
 予定より3年も遅れ、満身創痍で地球に戻って来て、夜空に輝きを放ちつつ燃え尽きてカプセルを届けた姿は、かつての日本の母のようでありますし、戦時中の無名の日本兵のようでありますし、戦国時代のサムライのようでもあります。日本の誇れる一大ニュースでありました。
 さて、本日の本題であります無門関の第二則「百丈野狐」に入りたいと思います。
 百丈懐海和尚は唐の時代(749年から814年)の禅僧です。百丈和尚の法話の席に、いつも一人の老人がいて、常に大衆のうしろで聴聞していました。そして、修行僧が退席すると、老人も退席します。ところが、ある日、老人はそのままいました。そこで百丈和尚が尋ねます。
 「あなたは、是れ何人ぞ。」と。
 老人は答えます。
 「はい、わたしは人間ではありません。昔、釈迦仏の前の迦葉仏の時代にこの大雄山で住職をしていました。その時、修行僧がわたしに尋ねました。」
 「修行を完成したものでも、因果に落ちますか。」と。
 そこで、わたしは次のように答えました。
 「不落因果―因果に落ちず―因果に落ちることはない。」と。
 「そのために、何回も死んでは野狐に生まれ変わりました。今、お願いしたいのは、わたしに、迷いを破る決定的な言葉で、この野狐の身から救い出して下さい。」と。
 老人は百丈和尚に改めて尋ねます。
 「修行を完成したものでも、因果に落ちますか。」と。
 百丈和尚は答えます。
 「不昧因果―因果を昧さず―因果から逃れられない。」と。
 その瞬間、老人は大悟(悟りをひらく)しました。つまり、老人が大きな間違いをしていたことに気づいたのです。
 修行を積むことによって因果の法則から免れると思い込んでしまったことです。因果とは、原因と結果のことで、お釈迦様も強調され、徳を積むことを奨められました。しかし、霊感商法のように、壺を買えば金持ちになるとか、信心をすれば病気が治るとかのように現世利益を説かれたのではありません。
 真面目に受験勉強していましても、不合格になることがあります。
 健康第一と節制していましても、病気になることがあります。
 いくら善根を積みましても、不幸な目に遭うことがあります。
 真面目に勤務していましても、会社が倒産することがあったり、解雇に合ったりすることがあります。
 交通法規を守っていましても、事故に遭うことがあります。
 いくら修行しましても、因果の法則から免れないこともあります。それを百丈和尚は「不昧因果―因果を昧さず」と言い、老人は、それを聞いた途端、思い込みに気付いたのであります。
 そこで、百丈和尚が野狐を通じて言った「不落因果」と「不昧因果」を、どのように体得するかが、百丈野狐の公案のもつ意味と思われます。
 不落と不昧は、因果の法則から「免れる」と「免れない」の関係で、正反対の関係です。つまり、二元対立の世界と言わざるを得ません。
 私達の肉眼の目は二つあります。それは、右と左の二つの目であります。二つの目でみると、あらゆるものを相対的にみてしまいます。右と左・表と裏・生と死・大と小・善と悪などです。
 ところが、一隻眼という心の目は、一つしかありません。 その一つの目で見ますと、右も左もありません。表も裏もありません。生も死も。大も小も。善も悪も。 もちろん、「不落―免れる」も「不昧―免れない」もありません。 それは、まるでサイコロの目のようなもので、面は違っても、同じサイコロの中のもの。言いかえれば、隣り合わせと言うことでありましょう。
 二元対立のない無分別の世界に気付かされた時、野狐もまたよしで、野狐をたとえ、500回、生まれ変わり死に変わりましても、風流なものと言えましょう。



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