●無

15.平成16年9月23日(木) 秋季彼岸会の一席
 演題「無」 布教師 住職(服部潤承)


 今年は、6月の中旬から暑くなり、その上に残暑が厳しいので、稲がよく実っているそうで、昨年の冷夏にくらべて、豊作と言われています。 大自然の恵みは、時として辛い一時期がありましても、結果的に多くの実りをもたらせてくれますと、一時の暑い辛さも良縁と言わざるを得ません。
 仮に、昨年のような涼しい夏でしたら、確かに私達にとって、過ごし良いものですが、結果的に不作であれば、決して良縁とは言えないのではないでしょうか。
 以前、サーカスの綱渡りをみていますと、バランスをとる長い棒の真中を持って、一歩一歩一直線上に足を運んでいます。 背筋をピンと伸ばし、頭から足の先まで神経が行き届いているかのようであり、邪心がなく何も考えないで無の心で歩を進めています。 目の視野は、足元だけでなく、歩むべき遠き先を見据えています。 一度、右に傾いても、左に傾いてもバランスを崩してしまいますと、地面に叩きつけられてしまいます。 命綱やネットがあれば、命は助かりますが、観客からは、拍手や歓声でなく、嘲笑・野次・怒号が乱れ飛ぶのではないでしょうか。
 人生の歩みも、綱渡りのようなものかと思います。バランスを崩さず、右でもなく左でもない第三の道・中道を歩む必要があろうかと思います。 凛と背筋を伸ばし、適度な緊張と、あれやこれやとどうにもならないことをくよくよ考えないで、先の先を見据えて、一歩一歩確実に進まなければなりません。 命綱もなければ、ネットもありません。 バランスを崩して落ちてしまわないように、余程注意が必要かと思います。
 先月、アテネでオリンピックが開催されました。 大きな事件や事故もなく、さすがにオリンピック発祥の地での開催でした。 平和目的で各国々の人々が集まれたのです。
 日本は、過去最多の37のメダルを獲得をしました。 選手にとって、メダルは大切なものかもしれませんが、結果はともあれ、一所懸命・一つの所に命を懸けることができれば、どれほど幸せなことかわかりません。 また、オリンピックには、たくさんの人間ドラマを見ることができました。
 マラソンの野口みずきさんは、資金不足のため、思うままに練習ができなかったそうで、ハングリー精神と言うのでしょうか、淡々と走り抜いてみごとに金メダルを手にしました。
 水泳の柴田亜衣さんは、高校時代の水泳の記録はそれほどでもなかったようですが、今回のオリンピックで一躍金メダル獲得、まさしく大器晩成と言えましょう。
 レスリングの伊調千春・馨姉妹のメダル獲得劇、銀メダルのお姉さんの敵討ちとがんばった妹さん。
 同じく浜口京子さんの父アニマル浜口元プロレスラーの迫力ある応援には、子を思う父親の気持ちが伝わって来ました。
 山本貴司選手は、奥さんの千葉すず元水泳選手の分まで頑張ったそうです。
 最年長の山本博選手は、アーチェリーで銀メダルを獲得、中年オヤジの意地を知らしめました。
 悲喜交々の人世模様を目のあたりにしますと、技術・技もさながら、精神・心も大切だと言うことかもしれません。
 高校野球の優勝旗が北海道に渡ったことが大きくニュースになりました。 北海道南代表駒大苫小牧高校と愛媛代表の済美高校の決勝戦は、実力も拮抗、互角の戦いの末、駒大苫小牧高校が優勝しました。 何が勝利に導いたのでしょうか。 雪国極寒の地は練習時間も少ないだろうし、練習もままならないと思います。 指導者の人柄もありましょうし、選手一人一人の技術はもちろん、精神まで鍛錬できたのでしょう。 ちなみに、駒大苫小牧高校は禅宗・曹洞宗の関係校ですので、きっと禅を実践されたのではないかと思っております。

 さて、本日の演題の「無」であります。 彼岸会の案内をご覧になって、今回の法話は「無い」と思われた方があったのではありませんか。 実は「有り」ます。 この「無」は、「有る・無し」の「無」ではありません。
 無門関の第1則に、
 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや。」 州云わく、「無」
 ある僧が趙州和尚に尋ねました。「狗子(犬)にも仏性(仏様の要素)がありますか。」と。 趙州和尚は、「無」と一言、答えました。
 趙州和尚は、中国の唐時代の禅僧であります。 趙州和尚が答えました「無」とは、どのような「無」なのか考えてみるのが、今回のテーマであります。 2500年前、お釈迦様は、「一切衆生悉有仏性」と、おっしゃっています。 つまり、この世に存在するものは、特に生きとし生きるものは、仏様になる要素があるとおっしゃっていますので、犬に仏様になる要素があるのかと尋ねられたら、もちろん有るに決まっているのにもかかわらず、敢えて、趙州和尚は、「無」と答えました。
 「有る・無い」は、二分法の世界です。 言い換えれば、分別の世界であります。 世間一般では、分別心がないと一人前とみなされません。特に善悪の分別がつかないと、あの人は非常識な人だとか、道徳心のない人だとか言われて、後ろ指をさされることがあります。 これは、人間社会に生きていかなければならない常識と言わざるを得ません。 しかし、それが分別がつかなくなった時、人間界から地獄・餓鬼・畜生・修羅に堕ちて行ってしまうのであります。
 その反面、二分法の世界、分別の世界を超越した時、お浄土・お悟りの世界が実現できるのではないでしょうか。 犬に仏性が有るとか無いとかと言うのは、人間世界の狭い見識から来る判断なのであります。 よく小さい頃、つまらないことで兄弟喧嘩をしました。 弟の○○ちゃんが悪い、僕は悪くないと、べそをかくことがありました。 母親からすると、とるにたらないことで一笑に付すようなことでも、子供にとっては、善悪のとらわれの世界に迷い込んでしまい、広い見識がなくなり、真暗闇の世界に落ち込んでしまっているのであります。
 人間世界の狭い見識の判断は、そんな程度なのであります。
 趙州和尚の「無」は、「有る・無し」の「無」ではなく、分別の世界を超越した「無」・とらわれのない自由な「無」と心得たいものであります。



法話TOP