●独坐大雄峰

13.平成16年8月7日(土) 施餓鬼会の一席
 演題「独坐大雄峰」 布教師 住職(服部潤承)


 お盆行事として、お施餓鬼を勤めましたところ、暑い上に、長時間にわたりまして、お参りくださいましたことを厚くお礼申し上げます。 この行事も、350年綿々と続いてまいりました。それを思いますと、感慨深いものがございます。近隣の和尚様のお力添えを得て、佛日寺の歴代の住職が毎年欠かさず、続けることができましたのは、ひとえに参加していただきました檀家の皆様、とりわけ350年間の代々の当主を始め、ご一統の皆様があればこそと感謝しております。
 菩提寺の本堂に、仏縁ありし皆様を会し、お釈迦様がお説きになったお施餓鬼の法要にともない、ご先祖様のご供養ができるのは、人として生を受けたよろこびであります。 近年、宗教離れと言われて久しくなりますが、そのあらわれとも言うべき現象が新聞紙上を賑わしております。 小学女子児童が同級生をカッターナイフで殺傷した事件・中学生が幼児を階段から突き落とした殺人未遂事件、母親が赤坊をベッドに叩きつけた殺人事件・加古川で親類7人を殺傷した事件等枚挙に遑がありません。 人の命が軽くなってしまったのでしょうか。 人の命は地球より重しと言われたのは、遠い昔のことでしたでしょうか。
 この世に存在するすべてのものが尊くて、掛け替えのないものであったのに、何と言うことでしょうか。命が永遠に続いて来たことを古代インド語でアミダーバと申します。 何十億年間も続いてきた命を、一時のつまらない感情で危めてしまうのは、大変残念なことでありますし、大変罪深いことでもあります。
 浄土門では、倶会一処と申しまして、倶に一処に会すと教えています。
 死んだら、「皆に会えるので楽しみ」・「もう一度会ってみたい」・「長い事会っていないので是非とも会いたい」・「何をお土産に持って行こうか」・「土産話はこれにしよう」等色々と思いをめぐらしている方は、大変幸せな方だと言わざるを得ません。
 しかし、その反面、「あの人と顔を会わすのは嫌だ」・「以前こんなことがあったし、あんなこともあったので、あの人にだけは絶対会いたくない」等今から不安になり、心配する方もいらっしゃるのではないでしょうか。 まして、人を殺めた罪人が、殺された被害者と顔を会わすことにもなりますと、どれ程辛いことか知れません。
 倶会一処の教えと言うのは、「生前中から皆仲よくしておかないと、死んでから嫌でも同じところに集まるのだから、日頃から『殺生したり、嘘をついたり、盗みをはたらいたり、酒を飲んだり、不倫をしたり』していると、気まずい思いをしたり、責め苦を受けたりしますよ。」という意味にとれます。 浄土門の方から、「それは違う」と、お叱りを受けるかもしれませんが、私はこのように理解しておきたいと思います。
 私は昭和56年5月23日に、師匠である父を死くしました。 御歳56歳、佛日寺16代目の現役住職で宗会議員でもありました父は、突然入院し急逝しました。 さぞかし無念なことであったと思います。 それは、たくさんやり残しがあったからです。 お墓の整備・梵鐘の再鋳・駐車場の確保・仏具の新調・石庭の造作等、この23年間皆さんのお力を借りて、面目一新に努めてまいりました。 師匠のやり残しを弟子が代わりにさせていただいたまでであります。 たくさんお土産話ができましたので、丁度先月9日、曽我あけみさんがご主人と2人のお嬢さんに再会されたように、往生のあかつきには、一番に会って尽きぬ話をしたいものと楽しみにしております。

 さて、本日の「独坐大雄峰」に入りたいと思います。
 『碧巌録』の第26則に、
  僧、百丈に問う。如何なるか、これ奇特の事。丈云わく、独坐大雄峰。僧礼拝す。丈、便ち打つ。
 中国唐時代、百丈懐海禅師が江西省にある大雄山(峰)に住していました。
 そこで、修行僧が百丈禅師に尋ねました。
 「一体、何が奇特な事なのでしょうか。」
 すると、百丈禅師は答えます。
 『独坐大雄峰』と。
 奇特を「きどく」と読むと、不思議なしるし・霊験と言う意味であります。また「きとく」と読むと、特にすぐれていること・殊勝と言う意味であります。両方の意味を合わせて、『功徳』と言う意味にとっておきたいと思います。
 つまり、或る修行僧が百丈禅師に、「禅の功徳とは、どう言うものか。」と尋ねますと、百丈禅師は、「わたしは、ここ大雄山(峰)に、ひとり坐っていることだ。」と答えたのであります。
 宇宙世界のどこを探しても、わたしはここにたった一人だけしかいない尊い存在であります。スマップの歌ではありませんが、世界でひとつだけの花、すなわちオンリーワンなのであります。そして、私の心は、天地に満ち満ちて、お香の煙が大気に融けあっていくように、雨の一滴が海に降り注ぎ、大海になるように、宇宙と一体・融合した自分がここに独り坐っております。 そこには、他と自分が対立しているのではなく、一つに融け合っているのであります。
 黄檗禅は、「唯心の浄土・己身の弥陀」を体得することを標榜しております。 お浄土は、西方にありとするだけでなく、我が心に見いだし、また、阿弥陀仏は、西方浄土にありとするだけでなく、己の身が阿弥陀仏を宿し、さらには、阿弥陀仏と同体のものと認識することを言います。 「唯心の浄土・己身の弥陀」を認識した時、『独坐大雄峰』の境界と言えるのではないでしょうか。
 最後に、ここ大雄山(峰)に、なんの執らわれもなく、天地に満つるがごとく、われかれなしに、どっしりと落ち着いて坐っている百丈禅師は、慇懃にわかったかのように礼拝する修行僧を、容赦なく策打ちました。 それは、世間の常識に執らわれるな・真理に生きよと叱咤激励の愛の策だったのであります。
 お盆行事は、日本の古い仏教行事であります。普段の忙しい日常生活から離れ、ゆっくりと落ち着いた生活に戻り、自分を省み、自分につながっている先祖代々を思い、親子・兄弟姉妹・親類縁者が和やかに集うのが、日本のお盆でございます。



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