●麻田藩


麻田藩藩主頂相(佛日寺所蔵)



 重直公 


 一重公 


 重兼公 




 麻田藩は、大坂を取り囲む大名領のひとつで、大坂南部の狭山藩とともに1万石余の外様大名である。青木氏は戦国末期美濃国にあり、初代藩主の父、重直は初め土岐頼藝に仕え、のち斎藤道三に属して軍功があった。斎藤氏没落後、織田信長に従い、のち豊臣秀吉に仕えた。文禄3年(1594)10月、摂津国豊嶋郡の内1400石の地を宛行われ、同4年9月にまた摂津国兎原郡内で360石余の加増があった。重直の子が一重であり、実質上の麻田藩の初代である。一重は美濃国に生まれ、初め今川氏直に仕えて功あり、氏直没落、一時遠江国掛川に退いたが、元亀元年(1570)、徳川家康に仕えて戦功をあげた。同3年冬の三方ケ原の敗戦によって家康のもとを去り、丹羽長秀に仕え、長秀の死後、豊臣秀吉に従った。天正13年(1585)、豊嶋郡内に采地を受け、また伊予・備中の加増があり、1万石余を領した。秀吉の没後は秀頼に仕え、大坂七手組の頭となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣には大坂方に与し、翌元和元年(1615)1月、大坂方の和議礼謝の使として駿府に下向したが、帰路拘禁された。この後、大坂の落城を聞いて剃髪、幽居されることを望んだが、家康に再仕することになり、同7月、父重直の采地12000石余を領し、豊嶋郡麻田に住んだ。のち、弟の可直に2000石余を分与した。
 2代の重兼は、隠元が来日して宇治に黄檗山万福寺を建立した時、建立奉行をつとめ、承応3年(1654)、豊嶋郡東畑村に仏日寺を建て、菩提寺とした。
  青木氏はその後、重成・重矩・一典・一都・見典・一新・一貫・一貞・重龍・一興・一咸・重義と続いて、転封されることがなかった。明治2年(1869)6月に上知して麻田藩知事となり、のちに子爵を授与された。  なお、一貞の寛政年間(1789〜1800)には藩校「直方堂」を創設し、漢学を教授、一興の天保年間(1830〜44)には習字・算数・礼法が加わり、明治2年「文武局」と改まり、文武両面にわたって教授した。  藩財政は近世中期以降、窮迫に陥り、近郷の豪農や大坂町人からの借用を受け、藩札も発行したが、幕末期には藩財政の管理も支配下有力領民の手に移った。


執筆者・小林 茂氏



藩主愛用家紋入り銘銘椀(佛日寺所蔵)



冨士に霞(青木冨士)


 三ツ盛り洲浜 






広報いけだ1999年9月1日号(No.938)